◆帰れなかったある息子の話


ベトナム戦争 ~ 家に帰れなかったある息子の話


ベトナム戦争から家に帰る前夜、青年兵士は自宅に電話した。

「明日帰るんだけど、他に行くところがない友達を連れて帰りたいんだ。家で一緒に住んでもいいかな?」
...

息子の帰還報告に狂喜した両親は、勿論!と泣きながら答えた。

「でも、一つだけ言っておきたいことがあるんだ。彼は地雷を踏んでね、足を失ってしまったんだよ。でも、僕は彼を家に連れて帰りたいんだ。」

その台詞に、両親は押し黙ってしまった。

「数日ならいいけれど、障害者の世話は大変よ。家にいる間に、そのお友達が住める所を一緒に探しましょう。 あなたにも私たちにも自分達の人生があるのだから、そのお友達 の世話に一生縛られるなんて無理よ。」

やっとのことで母親がそれだけ言うと、息子は黙って電話を切った。

翌日、警察から電話があり、青年兵士の両親は彼がビルの屋上から飛び降りて死んだことを知らされた。

死体と対面した両親は絶句し、泣き崩れた。

 

・・・・・息子には、足がなかった。



 

 

 ◆「秘密保護法の目的」船瀬俊介氏

アメリカは戦後30回近くも戦争を繰り返してきた。これほど戦争をする国
は例がない。なぜか? それは戦争がアメリカの“公共事業”だからだ。 
軍事費が軽く100兆円を超える軍事帝国アメリカ……。日本は5兆円だから、
20倍以上。かれらに“軍縮”の2文字はない。

中国は世界でもっともアメリカ国債を保有する。
借金はいつか返済しなければならない。しかし、アメリカには返す気など
毛頭ない。
...

そのためには「中国人を皆殺しにすること」と、米国の子どもですら言っ
ている。

よって、アメリカが望むのは東アジアでの戦争である。中国を叩いて弱体
化させ、支配下に置く。すると国債保有第2位の日本と、1位の中国を隷属
させることができる。

借金はチャラとなる。さらに米中戦争では、前線に駆り出されるのは新日
本軍と韓国、台湾の属軍だろう。そのための布石が尖閣問題であり、秘密
保全法なのだ。
“軍産複合体”は“公共事業”でおおいに潤うだろう。
さらに、闇の勢力が密かに狙う地球人口の大幅削減にも、この東アジア戦
争は大いに貢献する。

 ――あなたは、そんな地獄の未来を受け入れられるか?

↓FBフレンドの最もたるご意見集!!

保守だぁ〜!護国だぁ〜!って叫ぶやつほど戦争に肯定的ですね。
まず、事実として近代の戦争で「大義」など有ったためしが無い。

大義の無い戦争に、何かしらの大義をこじつけて、「命なんか惜しくない」って言ってるのがカッコいいと思ってるんでしょうね。アホくさ。

究極の護国は「世界平和の実現」だと、固く固く信じて疑いません。
国益がどうのとか、誇りがどうのとか............

国益の変わりに国民の命を差し出すのであれば、国民の命は国のためにはならないと言っているも同然。

命がけで戦争を回避しようとしない政権、政府の政策は、則ち「棄民政策」ですね。

 
                 ★~~~~★~~~~★~~~~★~~~~★
 
 
自作自演の戦争・原爆投下・911テロ・311人工地震・薬害・原発放射能による人口削減を企む輩が世界を牛耳ってますから…。
明治維新・偏狭教育・郵政民営化・TTP・特定秘密保護法案・特区と、輩の狙い通り売国奴により日本の蓄財『簡保』搾取・高額保険医療・食糧独占で、日本白痴奴隷化計画着々と進行中…


気がついた人から『NO』を!!!

『特定秘密保護法案』成立で、社会の真実を語る者が不当逮捕されることは絶対に避けなければ、国民が不幸になる…恐ろしい法案が採決されてしまいました。

世界の民衆が真実を知り、戦争・人口削減を企む輩・武器毒薬商人の不買運動を起こし、世界中一丸となって排除すれば解決すると思いますが、日本は未だ輩の手下ですから…

米国も世界も輩に気づき、排除を始めました。近い内に日本も売国奴が暴露され、民衆から排除されるでしょう。反省するなら今の内です。
 
皆、支配者層の2000年詐欺には気づいてらっしゃるみたいですね・・・。

それにしても・・・私の長く生きてるけどさぁ・・凄い政権だよね(呆)

千年に一度の大震災が起こって自宅に帰れない人たちが数えきれないほどいるのに、原発が大事故を起こして国土と海を汚染し続けて多くの国民が被曝し続けてるのに、そんなのホッタラカシ、オリンピック、オリンピックで浮かれまくってるし・・((+_+))
 

◆ベトナム中を涙させた少年
 
少年の強さに感動しました。

東日本大震災直後、福島県に派遣された一人の警察官がいた。

彼は在日ベトナム人の両親を持ち、...

日本に生まれ、人のために働きたいと帰化して警察官になった。

その彼が派遣された場所は、福島第一原発から25km離れたある被災地。

震災と原発事故の最も過酷な状況の中で治安確保のための派遣だった。

しかし、治安は安定しており、住民の見回りも機能し、

彼は被害者の埋葬と食料分配の手伝いを

多忙な職員に代わって行なっていた。

被害者と向き合った初日こそ涙を流したものの、

余りに酷い惨状に泣くことさえ忘れ、ただ呆然と仕事をこなす毎日となった。

忘れもしない3月16日の夜。

被災者に食料を配る手伝いのため向かった学校で

彼は9歳だという男の子と出会った。

寒い夜だった。

なのに男の子は短パンにTシャツ姿のままで、食料分配の列の一番最後に並んでいた。

気になった彼が話しかけた。

長い列の一番最後にいた少年に夕食が渡るのか心配になったからだ。

少年は警察官の彼にポツリポツリ話し始めた。

少年は体育の時間に地震と津波にあう。

近くで仕事をしていた父が学校に駆けつけようとしてくれた。

しかし、少年の口からは想像を絶する悲しい出来事が語られた。

「父が車ごと津波にのまれるのを学校の窓から見た。

海岸に近い自宅にいた母や妹、弟も助かっていないと思う」

と話したのだ。

家族の話をする少年は、不り振り払うかのように顔を振り、

にじむ涙を拭いながら声を震わせた。

悔しさと心細さと寒さで・・・

彼は自分の着ていた警察コートを脱いで少年の体にそっと掛けた。

そして持ってきていた食料パックを男の子に手渡した。

遠慮なく食べてくれるだろうと思っていた彼が目にしたものは、

受け取った食料パックを配給用の箱に置きに行った少年の姿だった。

唖然とした彼の眼差しを見つめ返して少年はこう言った。

ほかの多くの人が僕よりもっとおなかがすいているだろうから・・・」

警察官の彼は少年から顔を反らした。

忘れかけていた熱いものがふと湧き上がってきたからだ。

少年に涙を見られないように。

まがりなりにも大学卒で博士号をもち、

髪にも白いものが目立つほどに人生を歩んできた自分が恥ずかしくなるような、人としての道を

小さな男の子に教えられるとは。

9歳の男の子、しかも両親をはじめ家族が行方不明で心細いだろう一人の少年が、

困難に耐え他人のために思いやれる。

少年の時から他人のために自分が犠牲になることができる日本人は偉大な民族であり、

必ずや強く再生するに違いない。

自分の胸の中だけにしまっておくにはあまりにももったいない話だった。

いや、誰かと自分の感動を分かち合いたかった。

彼はベトナムの友人に自分の体験した話を打ち明けた。

ベトナムの友人も感動して祖国の新聞記者に伝えたのだろう。

Vietbao紙の記者は次のような記事をのせて、

少年と日本を称賛した。


「彼がベトナムの友人に伝えた日本人の人情と強固な意志を象徴する小さな男の子の話に、

我々ベトナム人は涙を流さずにはいられなかった。」

「我が国にはこんな子がいるだろうか」

この記事が大変な反響を呼び、決して裕福とはいえないが、

ベトナム国民からの義援金が殺到したという。

悲劇と苦難のもとでも失われないけなげな日本人の美質と負けない力を、

少年の小さな行為から教えられました。

ほんとうに、ありがとう。

でも・・・・

気がかりなのは9歳の男の子のこと。

奇跡が起きて生還した家族と暮らしていてくれることを心から願います。

------------------------------

・・・本当に心を洗われ感動しました。

少年の取った行動は日本の誇りだと思います。

いつまでもその気持ちを持って成長して欲しい。

そして、

亡くなった東日本大震災の方々に

心よりご冥福をお祈りします。

まだ年端もいかぬ少年が見せた日本人の誇りと心優しき気持ちを・・・・
 

 


 

『成長』

乳児はしっかり 肌を離すな


幼児は肌を離せ 手を離すな

少年は手を離せ 目を離すな
青年は目を離せ 心を離すな...

小学生は暗くなる前に帰りなさい
中学生は暗くなったら帰りなさい
高校生は日付が変わる前に帰りなさい
大学生は盆と正月くらいは帰りなさい
大学院生は帰れる家があることに感謝しなさい

社会人になったら、子供が安心して帰ってこれるような家を今度は自分がつくれるようにしなさい


・・・・・ぜひ多くの人に知ってほしいと思います。



◆「中村久子さんの生涯─心の手足」

数年前、「知ってるつもりというテレビ番組でも取り上げられ、
大変大きな反響を呼んだ中村久子さんという方を、
ご紹介したいと思います。
...

彼女は明治30年・飛騨高山市に
釜鳴栄太郎、あやの長女として、この世に生を受けました。

3歳の時に霜焼けがもとで「突発性脱疽(だっそ)」という病気にかかり、
両手両足を失うというまことに痛ましいできごとに見舞われます。

7歳の時、それまで人一倍可愛がってくれていた父が亡くなり、
母は久子さんを連れて再婚するのです。

当時の社会は、まだまだ身障者に対する理解は薄く、
手足のない彼女を見る世間の目はまことに冷たいものがありました。

このような子供が生まれたのは、何か祟りか、
罰が当たったのだと信じられていたのです。

当然母の再婚先でも、彼女は決して温かく迎えてはもらえず、
いつも二階の小さな部屋で身を隠すような日々を送っていたそうです。


彼女の母はそんな我が子を、
何としても一人で生きていける子こしてやらねばと、
彼女に厳しいしつけをするようになりました。

その母の厳しいしつけによって、

彼女は食事、トイレ、風呂、といった身の回りのことはもちろんのこと、
裁縫編み物、炊事、洗濯、さえも出来るようになるのです。


幼い彼女が、よくぞここまで頑張り通したものだと、
ただただ頭の下がる思いがいたします。
 

月日は流れ、20歳になった久子さんは、
小父さんの勧めもあって見せ物小屋で働くことになりました。


見せ物興行に身を置いた彼女は「だるま娘」という看板芸人として、
裁縫や編み物そして口で筆をくわえて字を書くといった芸を演じ、
忽ち人気者になっていきました。

こうして自らの力で自活の道を見つけ出すことが出来た久子さんでしたが、

彼女の心は生きる喜びや、希望が全く見いだせない、
そんな暗い日々が続いていたのです。

何とか生きる喜びを見いだそうと、
色々な宗教家の話を聞いてはみるのですが、
どの教えも決して彼女の心を満たしてくれるものではなかったのです。


立派な肩書きを持った宗教家でさえ、答は同じでした。

「それは前世の業じゃ、あきらめなさい、辛抱しなさい」
と言われるばかりでした。


「あきらめなさい」と言われ、
「はいそうですか」とあきらめ切れるのであれば、
どんなに楽なことでしょう。

しかし、私たち人間の心はそんな単純に割り切れるものではありません。

あきらめたくても、あきらめ切れない。

そこに、深い悲しみと苦しみが生まれるのです。


こうして心の晴れない日々を送っていた久子さんに、
一大転機が訪れるのです。

それは、ある婦人会の会合に招かれた時のことです。

隣に座られた方のその口から「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と、
静かにお念仏が出てくるのです。


「お念仏なさいませ。

一切は阿弥陀さまにお任せすることです。

どんな時も、阿弥陀さまは、私たち衆生を抱きかかえて下さるのです。

お念仏させて頂きましよう」

と、にこやかに笑みをたたえながら、

その方は彼女にお念仏を勧めて下さったのです。


その時のことを久子さんは次のように書き記しています。


「そのお言葉はまさに干天(かんてん)に慈雨でした。

長い間土の中にうずめられていた一粒の小さい種子が
ようやく地上にそっと出始めた思いがしました。

そして幼い日に抱かれながら聞いた祖母の念仏の声が
心の底にはっきりと聞こえたのです。

そうだ、お念仏をさせて頂きましょう。

そして、阿弥陀さまにすべてお任せ申し上げよう。

ようやく真実の道が細いながら見いだせた思いがいたしました」


彼女の深い感動が伝わる思いがいたします。

このことをきっかけに彼女は、
当時名だたる念仏者といわれた
金子大栄、花山信勝、足利義山といった方々に教えを請い、
次第次第にお念仏の道を深めていかれました。

振り返ればそれは、長い長い試練の道のりでした。


人の世の悲しみをいやというほど味わい、
自らの境涯を恨み続けてきた彼女でしたが、

今初めて、手足のないこの過酷な人生こそが、
お念仏のみ教えに出会うための尊いご縁であったのだと、
心の底からうなずくことができたのです。


そんな彼女の生き方は世の人々の感動を呼び、
各方面から講演を依頼されることが多くなってきました。


そして47歳の時、見せ物芸人の生活に別れを告げ、
以後、72歳で亡くなるまで、婦人会、母の会、学校、刑務所、お寺など、

請われるままに全国各地で講演活動を続け、
多くの人々の心に喜びと感動の火を灯していかれたのです。

お念仏のみ教えに出会えた彼女は、
その生きる喜びを多くの歌に残しています。


その一つに次のような歌があります。


「さきの世にいかなる罪を犯せしや拝む手のなき我は悲しき」


お念仏のみ教えにあって今初めて知らされる己の業の深さ。
 
そんな深い業の持ち主であったればこそ、
今、私は、み仏のお慈悲に会わせて頂くことができました。

もし、私にわがままが許されるのなら、拝む手が欲しいのです。

救われていく喜びを表す手が欲しいのです、

せめて両手を合わせてお礼を述べたいのです、

という歌です。


また、次のような歌もあります。


「手はなくも足はなくともみ仏の慈悲にくるまる身は安きかな」


手足のない人生。


他人が見ればこれほど過酷な人生はないと思うかもしれません。

しかし今の私は、阿弥陀さまの温かい懐に抱かれて、
この上もない安らかな人生が恵まれているのです。

という歌です。


そして彼女は自らの人生を振り返り、

「良き師、良き友に導かれ、

かけがえのない人生を送らせて頂きました。

今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は
両手、両足のないこの体でした」

と語っておられます。

----------------------------------------------------------------------------------
久子さんの心はとてもきれいな気がします。

私が同じような境遇であったら、ここまで達観することができたでしょうか?

頭が下がる思いです。

私には、両手を合わせて拝むことができるんですからね。

これからは、今よりもさらに心を込めて合掌をしようと思います。


        
写真: 「中村久子さんの生涯─心の手足」

数年前、「知ってるつもりというテレビ番組でも取り上げられ、
大変大きな反響を呼んだ中村久子さんという方を、
ご紹介したいと思います。

彼女は明治30年・飛騨高山市に
釜鳴栄太郎、あやの長女として、この世に生を受けました。

3歳の時に霜焼けがもとで「突発性脱疽(だっそ)」という病気にかかり、
両手両足を失うというまことに痛ましいできごとに見舞われます。

7歳の時、それまで人一倍可愛がってくれていた父が亡くなり、
母は久子さんを連れて再婚するのです。

当時の社会は、まだまだ身障者に対する理解は薄く、
手足のない彼女を見る世間の目はまことに冷たいものがありました。

このような子供が生まれたのは、何か祟りか、
罰が当たったのだと信じられていたのです。

当然母の再婚先でも、彼女は決して温かく迎えてはもらえず、
いつも二階の小さな部屋で身を隠すような日々を送っていたそうです。


彼女の母はそんな我が子を、
何としても一人で生きていける子こしてやらねばと、
彼女に厳しいしつけをするようになりました。

その母の厳しいしつけによって、

彼女は食事、トイレ、風呂、といった身の回りのことはもちろんのこと、
裁縫編み物、炊事、洗濯、さえも出来るようになるのです。


幼い彼女が、よくぞここまで頑張り通したものだと、
ただただ頭の下がる思いがいたします。
 

月日は流れ、20歳になった久子さんは、
小父さんの勧めもあって見せ物小屋で働くことになりました。


見せ物興行に身を置いた彼女は「だるま娘」という看板芸人として、
裁縫や編み物そして口で筆をくわえて字を書くといった芸を演じ、
忽ち人気者になっていきました。

こうして自らの力で自活の道を見つけ出すことが出来た久子さんでしたが、

彼女の心は生きる喜びや、希望が全く見いだせない、
そんな暗い日々が続いていたのです。

何とか生きる喜びを見いだそうと、
色々な宗教家の話を聞いてはみるのですが、
どの教えも決して彼女の心を満たしてくれるものではなかったのです。


立派な肩書きを持った宗教家でさえ、答は同じでした。

「それは前世の業じゃ、あきらめなさい、辛抱しなさい」
と言われるばかりでした。


「あきらめなさい」と言われ、
「はいそうですか」とあきらめ切れるのであれば、
どんなに楽なことでしょう。

しかし、私たち人間の心はそんな単純に割り切れるものではありません。

あきらめたくても、あきらめ切れない。

そこに、深い悲しみと苦しみが生まれるのです。


こうして心の晴れない日々を送っていた久子さんに、
一大転機が訪れるのです。

それは、ある婦人会の会合に招かれた時のことです。

隣に座られた方のその口から「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と、
静かにお念仏が出てくるのです。


「お念仏なさいませ。

一切は阿弥陀さまにお任せすることです。

どんな時も、阿弥陀さまは、私たち衆生を抱きかかえて下さるのです。

お念仏させて頂きましよう」

と、にこやかに笑みをたたえながら、

その方は彼女にお念仏を勧めて下さったのです。


その時のことを久子さんは次のように書き記しています。


「そのお言葉はまさに干天(かんてん)に慈雨でした。

長い間土の中にうずめられていた一粒の小さい種子が
ようやく地上にそっと出始めた思いがしました。

そして幼い日に抱かれながら聞いた祖母の念仏の声が
心の底にはっきりと聞こえたのです。

そうだ、お念仏をさせて頂きましょう。

そして、阿弥陀さまにすべてお任せ申し上げよう。

ようやく真実の道が細いながら見いだせた思いがいたしました」


彼女の深い感動が伝わる思いがいたします。

このことをきっかけに彼女は、
当時名だたる念仏者といわれた
金子大栄、花山信勝、足利義山といった方々に教えを請い、
次第次第にお念仏の道を深めていかれました。

振り返ればそれは、長い長い試練の道のりでした。


人の世の悲しみをいやというほど味わい、
自らの境涯を恨み続けてきた彼女でしたが、

今初めて、手足のないこの過酷な人生こそが、
お念仏のみ教えに出会うための尊いご縁であったのだと、
心の底からうなずくことができたのです。


そんな彼女の生き方は世の人々の感動を呼び、
各方面から講演を依頼されることが多くなってきました。


そして47歳の時、見せ物芸人の生活に別れを告げ、
以後、72歳で亡くなるまで、婦人会、母の会、学校、刑務所、お寺など、

請われるままに全国各地で講演活動を続け、
多くの人々の心に喜びと感動の火を灯していかれたのです。

お念仏のみ教えに出会えた彼女は、
その生きる喜びを多くの歌に残しています。


その一つに次のような歌があります。


「さきの世にいかなる罪を犯せしや拝む手のなき我は悲しき」


お念仏のみ教えにあって今初めて知らされる己の業の深さ。
 
そんな深い業の持ち主であったればこそ、
今、私は、み仏のお慈悲に会わせて頂くことができました。

もし、私にわがままが許されるのなら、拝む手が欲しいのです。

救われていく喜びを表す手が欲しいのです、

せめて両手を合わせてお礼を述べたいのです、

という歌です。


また、次のような歌もあります。


「手はなくも足はなくともみ仏の慈悲にくるまる身は安きかな」


手足のない人生。


他人が見ればこれほど過酷な人生はないと思うかもしれません。

しかし今の私は、阿弥陀さまの温かい懐に抱かれて、
この上もない安らかな人生が恵まれているのです。

という歌です。


そして彼女は自らの人生を振り返り、

「良き師、良き友に導かれ、

かけがえのない人生を送らせて頂きました。

今思えば、私にとって一番の良き師、良き友は
両手、両足のないこの体でした」

と語っておられます。


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久子さんの心はとてもきれいな気がします。

私が同じような境遇であったら、ここまで達観することができたでしょうか?

頭が下がる思いです。

私には、両手を合わせて拝むことができるんですからね。

これからは、今よりもさらに心を込めて合掌をしようと思います。


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~アサガオが咲くには~

朝顔の花は、

名前が示すとおり、

一般的には朝の光を受けて咲くのだ

と思われています。

しかし実際は、

朝顔のつぼみに24時間

光を当てていても、

それでは花は咲かないそうですね。


朝顔の花が咲くには、

朝の光に当たる前に、

「夜の冷気」と

「闇」に包まれる

「時間」が

不可欠なのだといいます。


人生も同じですね。。

今は、辛いと思うことでも、

その苦しみが

やがて花咲くタネになると信じて、

頑張りたいと思います。


「悲しむな 

 夜が明ければ

朝来(きた)る」

 
~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 

すごくステキですね。

私が気学師をやっててこの詩を読んで、はっと思わせる箇所があります。

「夜の冷気」と「闇」に包まれる「時間」が 不可欠~。

そうなんです。

ただね、

「夜が明ければ朝来(きた)る」

ここですが。。。もうとっくに朝が来てよい、幸せになっていいんだよ・・
お許しがやってきている。成長している。

しかし、本人がどう朝を迎えてよいのかわからない。

そんな人のなんと多いこと多いこと!

そのために私のお役目があるのでは?

唐突に言いますが、移動で運気を変えます。

アストロマップ・・・ミラクルバースマップ+アイコ気学

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