私達はなぜか好きなことを仕事にできないと思い込んでいま す。
世の中、甘くないと勝手に思い込んでいるんです。
絶対にそんなことないんですが、 決まられた枠の中から出ないように躾けられてるんです。
これははっきり言って洗脳されてる状態なんです。
じゃあ、だれがそれをやっているの?日本の場合を話しますと。。 。
日本で詰め込み教育、受験一辺倒教育、偏差値、 スコアによる選別教育が始まったのは、1960年以降の安保・大学紛争以後です。
今から考えるとあそこが分岐点らしい。
あの紛争で政府は過激な学生運動に非常に強い危機感を持ったとい うこと。
ここで国民教育を民化政策に転換した。
その象徴が「偏差値、スコアによる教育」です。
本来、人間の能力は自分で判断すべきですよね。
自分のやりたいことはその判断に基づいて自分で決めること。
ところが、 日本とアメリカの子供たちは自分の能力の判断をする大切な時期を 偏差値に支配された世界で過ごすため、自分で自分を判断する力をなくし、 やりたいことも自分ではなく偏差値で決めることになってしまった。
こうなると本人も偏差値による数字を先生に言われることで「 予定調和」してしまい「自分はこの程度」と簡単に思ってしまう。
学校や塾で「この偏差値では、この学校はムリだ」 と繰り返し言われれば、目標を上げることなぞムリになる。
これが偏差値教育の弊害。
これは工業化社会の確立を目指す政府には非常に都合のよい政策で あったのです。
それぞれが、その能力に見合った位置で仲良く協力し合ってやっていくことが必要とされるからだ。
こういう飼い慣らされたロボット人間が大量に必要なのが工業化社会であってそのために偏差値による選別で有効に働かせたわけ。
これは個人個人から意欲というもの、アンビションを奪ってしまう方法である。
確かに現在の40代、50代、偏差値世代の人たちは非常に従順なのが多いね。
彼らは共通の思い込み「偏差値が高い」=「頭がよい」という図式が子供の頃から植えつけられていてそこから抜け出せないのである。
クラスメート、同級生といった狭い範囲で考えてみると、自分たちより数値の高い人がマスコミに行ったり、役所に行っているのを見て、「彼らは偏差値が高いから頭がよい」だから彼らの言うことは正しい!とおもしろいことに勝手に思い込んでいるのです。
つまり、私たちは中学校あたりから、自分の頭で考えるのをやめさせられて枠の中からはみ出ないように10年以上も洗脳させられることになるんです。
それぞれが、その能力に見合った位置で仲良く協力し合ってやっていくことが必要とされるからだ。
こういう飼い慣らされたロボット人間が大量に必要なのが工業化社会であってそのために偏差値による選別で有効に働かせたわけ。
これは個人個人から意欲というもの、アンビションを奪ってしまう方法である。
確かに現在の40代、50代、偏差値世代の人たちは非常に従順なのが多いね。
彼らは共通の思い込み「偏差値が高い」=「頭がよい」という図式が子供の頃から植えつけられていてそこから抜け出せないのである。
クラスメート、同級生といった狭い範囲で考えてみると、自分たちより数値の高い人がマスコミに行ったり、役所に行っているのを見て、「彼らは偏差値が高いから頭がよい」だから彼らの言うことは正しい!とおもしろいことに勝手に思い込んでいるのです。
つまり、私たちは中学校あたりから、自分の頭で考えるのをやめさせられて枠の中からはみ出ないように10年以上も洗脳させられることになるんです。
これらは当時の元中曽根大臣と大前研一さんの会話です。
それと学校のようなネットワークは共同体ではない。
子供の人生の50%を先取りし、全く同世代の子供たちで互いを束縛させベルを鳴らして始業と終業を知らせているだけ・・・ただの家畜である。
子供たちには一生をかけて、ていねいに、エレガントに、学ばなければいけない資源を大人たちが「先食い」「生き急ぎ」させてるだけなんです。
長くゆっくり手に入れる知識を急いでを費消したことの代償として期間限定的にパフォーマンスを上げることは可能です。
でもそれはバーゲンであることを自覚してる大人はごく少数だと思います。
自分の知識・見聞を「一生かけて高めていくもの」とは考えていない。
本来、学校教育は、子供たちの中に滞在している多様な学力、才能をゆっくり時間をかけて、ていねいに吟味し開花させるというのがほんとうのはずです。
学校教育は宿命として「成績をつける」ことを義務づけられています。
そのためには、他の条件を全部同じにして、数値的に比較考量可能な能力を見るしかない、タイム測ったり、点数つけたり、スコア数えたり・・
でも、人間が宿している能力の全般はほとんどは数値化できません。
少なくとも現在の学校で使えるような目安、装置では測定不能です。
人間なんてそんなに単純ではない。
例えば危機的状況を乗り切る方法なんてのは、生き延びる上で数学の方程式、化学式、なんかよりはるかに有効ですね。
数値化できない能力は、「ないもの」としているのは現在の学校教育ですよね。
これって人間の生物的本性に対する攻撃ですよね。
この学校教育で最も嫌いなとこは、心身の限界を超えると「いいこと」があるという利益誘導と、言う通りにしないと「ひどいめ」に合わせるという脅しで使い分けているところです。
「いいこと」と云うのは進学や就職や年収や名声であり、「ひどいめ」と云うのは体罰や屈辱や貧困のことです。
ここからは、「生きる力が満ちる」という細胞レベルでの力は出てこないです。
それを現代の社会で認めてあげられるのは・・・・
この狂って壊れた社会の中でそれを理解してあげられるのは・・・・
お父さん、お母さん、あなただちだけなんです。
それと学校のようなネットワークは共同体ではない。
子供の人生の50%を先取りし、全く同世代の子供たちで互いを束縛させベルを鳴らして始業と終業を知らせているだけ・・・ただの家畜である。
子供たちには一生をかけて、ていねいに、エレガントに、学ばなければいけない資源を大人たちが「先食い」「生き急ぎ」させてるだけなんです。
長くゆっくり手に入れる知識を急いでを費消したことの代償として期間限定的にパフォーマンスを上げることは可能です。
でもそれはバーゲンであることを自覚してる大人はごく少数だと思います。
自分の知識・見聞を「一生かけて高めていくもの」とは考えていない。
本来、学校教育は、子供たちの中に滞在している多様な学力、才能をゆっくり時間をかけて、ていねいに吟味し開花させるというのがほんとうのはずです。
学校教育は宿命として「成績をつける」ことを義務づけられています。
そのためには、他の条件を全部同じにして、数値的に比較考量可能な能力を見るしかない、タイム測ったり、点数つけたり、スコア数えたり・・
でも、人間が宿している能力の全般はほとんどは数値化できません。
少なくとも現在の学校で使えるような目安、装置では測定不能です。
人間なんてそんなに単純ではない。
例えば危機的状況を乗り切る方法なんてのは、生き延びる上で数学の方程式、化学式、なんかよりはるかに有効ですね。
数値化できない能力は、「ないもの」としているのは現在の学校教育ですよね。
これって人間の生物的本性に対する攻撃ですよね。
この学校教育で最も嫌いなとこは、心身の限界を超えると「いいこと」があるという利益誘導と、言う通りにしないと「ひどいめ」に合わせるという脅しで使い分けているところです。
「いいこと」と云うのは進学や就職や年収や名声であり、「ひどいめ」と云うのは体罰や屈辱や貧困のことです。
ここからは、「生きる力が満ちる」という細胞レベルでの力は出てこないです。
それを現代の社会で認めてあげられるのは・・・・
この狂って壊れた社会の中でそれを理解してあげられるのは・・・・
お父さん、お母さん、あなただちだけなんです。
私達は、化学物質・重金属・農薬・放射性物質・排気ガス・ PM2.5・電磁波・遺伝子組み換え食品・・
私たちはたくさんの有害物質に囲まれて生きていますよね
このことひとつとっても私らは現実から逃げてはいけないんです。
みんな靴ひもがほどけたまんま元気よく歩いてるようなもんです。
政治、経済、福祉、教育、歴史までもすべてのおいてウソがあふれ かえっています。
自分で奥まで調べ自分で考えることのできない人間は、 これからもこれから先もカモになるだけです。
ただ理解できない人は放っておいていいんです。
なぜなら自分自身が興味ある、惹かれる、 っていうのはすべてDNAの情報だと思うからです。
今、覚醒しないという選択も本人の魂の選択ですよね。
支配層から見て私達は皆同じ家畜ですが、 でもそのことに気づかない、知らない家畜は罪です。
でも気づこうとしない家畜はもっと罪なんです。
以下はブロガー「太賢」さんより抜粋~ おもしろいことおっしゃってますね。
◎近代日本の三悪道
我々を取り巻く様々な社会問題、
自殺・幼児虐待・治安悪化・少年犯罪の凶悪化・老人の孤独死・介護疲れによる殺人・少子化等々・・・。
その根本的な原因は拝金主義、学歴社会、核家族である。
これを私は「近代日本の三悪道」と呼んでいる。
今の社会の在り方は家族から父親、母親、子供を奪うシステムであると思っている。
父親を単身赴任・転勤・出張・交代制勤務によって家族から奪い、働く女性を応援すると云う名目で母親を子供たちから奪い、学制によって子供を奪う。これらの事によって家族から家族の時間を奪う。
気が付いたら自分を理解してくれる最も親しい人は赤の他人。
逆に家族同士があまりお互いのことを知らない。
子供は親の後ろ姿を見て育つと云うが、その後ろ姿すら見えず顔を合わせれば「宿題やれ!」、「皆についてけなくなるぞ!」、中学校に入ると「良い高校入れないぞ!塾に行け!」、高校に入ると「良い大学に入れ!」「良いとこに就職出来なくなるぞ!」。
そして決まってこう云う
「子供に良い人生を送ってもらいたいから・・・」
勿論これが全てとは言わないが、子供に大学なんか行く必要は無いって言う人も、子供には好きなことやらせたいと言う人も少なからず良い大学を出れば、良い仕事に就け、良い人生を歩めると思ってる方も多いのではないだろうか?
少なからず生活が保障されると信じてるのではないだろうか?
◎カルト学歴宗教
我が国は明治の廃仏毀釈運動や神仏分離令などによって神と仏を無理矢理分けられ、伝統宗教が大損害を受け衰退し、我々庶民は心の拠り所を失ってしまった。
そして既存の伝統宗教の衰退はカルト宗教の勃興へとつながった。
この明治の時に誕生した数々の社会弊害を生み出す恐ろしいカルト宗教の本当の正体こそ「学歴宗教」である。
この時から人を評価する時、志の有無や人柄、何が出来るか、ではなく点数でするようになってしまった。
現在、だいぶ衰退しつつあるが未だ学歴社会ではある。
つまり今の日本人の多くが「拝金主義」と云う御本尊を崇拝し、学歴があれば良い会社に入って高給を貰い幸せになれると云う教義(教え)を信じ、
高学歴=頭が良い
学歴無し=頭が悪い
と云う図式で見ているのでは無いだろうか。
その証拠に求人情報誌を見て欲しい。「やる気のある方大募集!高卒以上」
「あなたを待ってます!大卒以上 」
その殆どの条件資格に学歴が入っている。
これは優秀かどうか、やる気があるかどうかではなく、学歴で見てる証拠である。
つまりウチの仕事は馬鹿じゃ勤まりませんよってことだ。
しかし本当にそうだろうか?
親に言われたから、まわりの皆がそうだったから、ただ何となく大学を出て、ただ何となく就職が決まり、生活の為に仕方なく働き・・・。
しかし中卒でもやる気がある者は沢山いる。
例えば営業の仕事がやりたい、営業だったら誰にも負けない、と云う中卒の人がいたとする。
しかし大概の営業関係の仕事は高卒以上。
だからその仕事に就くことは出来ない。
この人と、大学を出てただ何となく面接で受かったから働くと言ってる人と、どちらが会社にとって有益で、どちらが会社にとって優秀な人だろうか?
いざ入社し仕事に就き、経験を積んでどんなに頑張っても大卒と高卒・中卒では出世に開きがあるのではなかろうか?
本当にやる気のある人、優秀な人が大卒じゃないと就職出来ないし出世も出来ない。
これは正しい事だろうか?
人はどんなに辛くて大変なことでも、興味のあることや好きなことは必死で覚えようとするのものである。
それが相対性理論だろうが六法全書だろうが自分の選んだ仕事に必要であったら必ず覚える。
生まれて死ぬまで大体100歳ぐらいの人生、その内の三分の一は寝て過ごし、その内の大切な幼児期から青春時代を最低12年から16年ぐらいは学校で過ごす。
その間に学んだ英語、数学の公式、理科の実験、音楽等々、社会に出てどれだけ役に立っているのか?
人によっては、場合によってはまったく役に立たない「勉強(勉める事を強いる)」をして過ごす。
本当の「学問」はそうではない。
興味を持って「学び」、どうしても分からなくなった時、初めて「問う」のが本当の「学問」である。
必要なことは必要な時にすべきではなかろうか?
あなたが本当に興味のおもむくままに学びたいことを学んだら、あなたの人生はどうであったろう。
人々が「経済発展が人を幸せにする」と云う幻想を追い求めた結果、次から次へと深刻なる社会問題を生み出し続け、その社会問題に対しても、金が無いから、金さえあれば幸せになる、と拝金に走り、その為には良い高校出て、良い大学出て、良い会社入って、それが良いことだとひたすら人々は信じ続け、信じ込まされている。
そう、人がより良い人生を歩ませない社会、それが学歴社会である。
これこそが人々を苦しめてる正体である。
そろそろ学歴社会を見直そうじゃないか。
◎明治以前
振り返ってみると明治以前はカルト「学歴宗教」なんて無い。
そして「職住一体社会」、つまり、仕事と住むところが一体で家族が一緒にいられたのである。
子供は午前中は寺小屋で学び、午後は家の手伝い。その共同体の大人たちに囲まれ、或いは大家族に囲まれ人としての在り方を「教わる」のではなく「示されて」学んだ。
人との接し方、神仏や先祖を敬う姿、仕事のやり方など示され、それを見ておぼえていったのである。
この「示す」と云う字は神のことである。
「宗教」と云う字は「宀」に「示」である。「宀」は「家」と云う意味で、「示」と云う字が神で「家に祀られてる神の教え」。
神に供物を捧げてるところ象形が「祭」。
「祟る」と云う字は「出」と「示」からなるが、これは神が「出」て来て「示」すので、二つ合わせて「祟る」と云う字になる。。
「祠」も「示」と「司」からなるが、神を司る場所などを指す。
そして日本人はこの「示す」と云うことが実に良く出来る民族である。
敢えて言葉に出さずとも分かる、「コトアゲセヌクニ」とはそう云う意味である。
以下はブロガー「太賢」さんより抜粋~ おもしろいことおっしゃってますね。
◎近代日本の三悪道
我々を取り巻く様々な社会問題、
自殺・幼児虐待・治安悪化・少年犯罪の凶悪化・老人の孤独死・介護疲れによる殺人・少子化等々・・・。
その根本的な原因は拝金主義、学歴社会、核家族である。
これを私は「近代日本の三悪道」と呼んでいる。
今の社会の在り方は家族から父親、母親、子供を奪うシステムであると思っている。
父親を単身赴任・転勤・出張・交代制勤務によって家族から奪い、働く女性を応援すると云う名目で母親を子供たちから奪い、学制によって子供を奪う。これらの事によって家族から家族の時間を奪う。
気が付いたら自分を理解してくれる最も親しい人は赤の他人。
逆に家族同士があまりお互いのことを知らない。
子供は親の後ろ姿を見て育つと云うが、その後ろ姿すら見えず顔を合わせれば「宿題やれ!」、「皆についてけなくなるぞ!」、中学校に入ると「良い高校入れないぞ!塾に行け!」、高校に入ると「良い大学に入れ!」「良いとこに就職出来なくなるぞ!」。
そして決まってこう云う
「子供に良い人生を送ってもらいたいから・・・」
勿論これが全てとは言わないが、子供に大学なんか行く必要は無いって言う人も、子供には好きなことやらせたいと言う人も少なからず良い大学を出れば、良い仕事に就け、良い人生を歩めると思ってる方も多いのではないだろうか?
少なからず生活が保障されると信じてるのではないだろうか?
◎カルト学歴宗教
我が国は明治の廃仏毀釈運動や神仏分離令などによって神と仏を無理矢理分けられ、伝統宗教が大損害を受け衰退し、我々庶民は心の拠り所を失ってしまった。
そして既存の伝統宗教の衰退はカルト宗教の勃興へとつながった。
この明治の時に誕生した数々の社会弊害を生み出す恐ろしいカルト宗教の本当の正体こそ「学歴宗教」である。
この時から人を評価する時、志の有無や人柄、何が出来るか、ではなく点数でするようになってしまった。
現在、だいぶ衰退しつつあるが未だ学歴社会ではある。
つまり今の日本人の多くが「拝金主義」と云う御本尊を崇拝し、学歴があれば良い会社に入って高給を貰い幸せになれると云う教義(教え)を信じ、
高学歴=頭が良い
学歴無し=頭が悪い
と云う図式で見ているのでは無いだろうか。
その証拠に求人情報誌を見て欲しい。「やる気のある方大募集!高卒以上」
「あなたを待ってます!大卒以上 」
その殆どの条件資格に学歴が入っている。
これは優秀かどうか、やる気があるかどうかではなく、学歴で見てる証拠である。
つまりウチの仕事は馬鹿じゃ勤まりませんよってことだ。
しかし本当にそうだろうか?
親に言われたから、まわりの皆がそうだったから、ただ何となく大学を出て、ただ何となく就職が決まり、生活の為に仕方なく働き・・・。
しかし中卒でもやる気がある者は沢山いる。
例えば営業の仕事がやりたい、営業だったら誰にも負けない、と云う中卒の人がいたとする。
しかし大概の営業関係の仕事は高卒以上。
だからその仕事に就くことは出来ない。
この人と、大学を出てただ何となく面接で受かったから働くと言ってる人と、どちらが会社にとって有益で、どちらが会社にとって優秀な人だろうか?
いざ入社し仕事に就き、経験を積んでどんなに頑張っても大卒と高卒・中卒では出世に開きがあるのではなかろうか?
本当にやる気のある人、優秀な人が大卒じゃないと就職出来ないし出世も出来ない。
これは正しい事だろうか?
人はどんなに辛くて大変なことでも、興味のあることや好きなことは必死で覚えようとするのものである。
それが相対性理論だろうが六法全書だろうが自分の選んだ仕事に必要であったら必ず覚える。
生まれて死ぬまで大体100歳ぐらいの人生、その内の三分の一は寝て過ごし、その内の大切な幼児期から青春時代を最低12年から16年ぐらいは学校で過ごす。
その間に学んだ英語、数学の公式、理科の実験、音楽等々、社会に出てどれだけ役に立っているのか?
人によっては、場合によってはまったく役に立たない「勉強(勉める事を強いる)」をして過ごす。
本当の「学問」はそうではない。
興味を持って「学び」、どうしても分からなくなった時、初めて「問う」のが本当の「学問」である。
必要なことは必要な時にすべきではなかろうか?
あなたが本当に興味のおもむくままに学びたいことを学んだら、あなたの人生はどうであったろう。
人々が「経済発展が人を幸せにする」と云う幻想を追い求めた結果、次から次へと深刻なる社会問題を生み出し続け、その社会問題に対しても、金が無いから、金さえあれば幸せになる、と拝金に走り、その為には良い高校出て、良い大学出て、良い会社入って、それが良いことだとひたすら人々は信じ続け、信じ込まされている。
そう、人がより良い人生を歩ませない社会、それが学歴社会である。
これこそが人々を苦しめてる正体である。
そろそろ学歴社会を見直そうじゃないか。
◎明治以前
振り返ってみると明治以前はカルト「学歴宗教」なんて無い。
そして「職住一体社会」、つまり、仕事と住むところが一体で家族が一緒にいられたのである。
子供は午前中は寺小屋で学び、午後は家の手伝い。その共同体の大人たちに囲まれ、或いは大家族に囲まれ人としての在り方を「教わる」のではなく「示されて」学んだ。
人との接し方、神仏や先祖を敬う姿、仕事のやり方など示され、それを見ておぼえていったのである。
この「示す」と云う字は神のことである。
「宗教」と云う字は「宀」に「示」である。「宀」は「家」と云う意味で、「示」と云う字が神で「家に祀られてる神の教え」。
神に供物を捧げてるところ象形が「祭」。
「祟る」と云う字は「出」と「示」からなるが、これは神が「出」て来て「示」すので、二つ合わせて「祟る」と云う字になる。。
「祠」も「示」と「司」からなるが、神を司る場所などを指す。
そして日本人はこの「示す」と云うことが実に良く出来る民族である。
敢えて言葉に出さずとも分かる、「コトアゲセヌクニ」とはそう云う意味である。
~アサガオが咲くには~
朝顔の花は、
名前が示すとおり、
一般的には朝の光を受けて咲くのだ
と思われています。
しかし実際は、
朝顔のつぼみに24時間
光を当てていても、
それでは花は咲かないそうですね。
朝顔の花が咲くには、
朝の光に当たる前に、
「夜の冷気」と
「闇」に包まれる
「時間」が
不可欠なのだといいます。
人生も同じですね。。
今は、辛いと思うことでも、
その苦しみが
やがて花咲くタネになると信じて、
頑張りたいと思います。
「悲しむな
夜が明ければ
朝来(きた)る」
~~~~~~~~~~~~~~~~~
すごくステキですね。
私が気学師をやっててこの詩を読んで、はっと思わせる箇所があります。
「夜の冷気」と「闇」に包まれる「時間」が 不可欠~。
そうなんです。
ただね、
「夜が明ければ朝来(きた)る」
ここですが。。。もうとっくに朝が来てよい、幸せになっていいんだよ・・
お許しがやってきている。成長している。
しかし、本人がどう朝を迎えてよいのかわからない。
そんな人のなんと多いこと多いこと!
そのために私のお役目があるのでは?
唐突に言いますが、移動で運気を変えます。
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メイルアドレス ⇒ info@aikodirection.com